怒り
人の怒りを買う、逆に、人に対して怒りを覚える…
毎日の生活の中で、ままあることだと思います。
自分という存在が無視されたり、ないがしろにされたとき、人は怒りが湧いてきます。ひとこと、「ごめん」とか「ありがとう」があれば、反応は全く変わってくるのですが、それがないと、場合によっては、恨みや憎しみにまで発展します。
今朝、Aさんは夫と大喧嘩してしまいました。
前夜から頼んでいたゴミ出しを、夫がせずに出勤してしまったからです。
でも、夫にも言い分がありました。いつも置いてある玄関にゴミがなく、玄関口で何度もどこにあるのか尋ねたのに、ことごとくAさんに無視されてしまいました。Aさんは洗面所でドライヤーを使っていたので夫の声が聞こえず、夫は夫で、そこまで想像力が働きませんでした。
それぞれに言い分はあるのですが、双方の怒りは治まりません。LINEでの喧嘩が断続的に一日中続きました。
Aさんの立場に立てば、夫はゴミを探して出すべきでした。もしくは、時間が無かったとしても、洗面所まで来て、置いてある場所を訊くべきでした。
夫の立場に立てば、いつものところに置いておくか、置いてある場所を出勤前に伝えて欲しかったということになります。
それぞれの言い分はもっともです。どちらが悪いわけでもありません。
でも、このままでは、溝は埋まることがないでしょう。
自分は正しい、相手も正しい。でも、相手が許せない。
この方程式が崩れない限り、平行線は続きます。
では、この溝に橋を架けるにはどうしたらいいのでしょう?
方法のひとつは「分身の術」です。 「分身の術」? そうです。自分の分身を、溝の向こうにいる相手のもとに派遣するのです。
これは、相手の立場に立つということと似ているようですが、違います。
相手の立場に立っても、相手も正しいわけですから、双方が正しいという平行線は変わりません。
そうではなくて、どちらが正しいか、という不毛な議論の土俵から下りるために実行するのです。
正しさというのは、相手がいて成立するものです。相手がいなければ、正しさは意味を失います。
信号機を思い浮かべてみればよくわかります。
十字路を縦にも横にも車が通るから、信号機が必要になります。青というシグナルが、自分が動くときの正義です。
もし車が一台も走っていなければ、青信号という正義は成立しません。
つまり、自分対相手ではなく、自分対自分にするために、自分の分身を派遣するのです。
しかし、そんなことができるのでしょうか?
修行を積めば「分身の術」を体得できるのでしょうか?
それは次回に。
 

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