原因がわからない悩み
悩みは、大きく分けて二種類あります。
原因がハッキリしている悩みと、そうではない悩みです。
原因がハッキリしている悩みは、その悩みの元がなくなれば解消されます。
お金がない、病気だ、失恋した、成績が振るわない、いじめられている…。
これらの悩みは、お金が入り、病が癒え、相手とよりが戻り、成績が上がり、いじめがなくなれば解消されます。
もちろん、どうやってお金を稼ぐのか、病気を治療するのか…という問題は残りますが。
それらに対して、こういう悩みはどうでしょう?
「将来に対するぼんやりとした不安」
「ぼんやりとした不安」を取り去ることができれば、悩みは解消されるのでしょう。しかし、その不安を拭い去ろうにも、不安の正体がわからないことには、対処のしようがありません。「ぼんやりとした」ものの正体を見極めるのは、なかなか大変な作業です。
それはウツですよ、という答えも返ってきそうですが、病気にしてしまう前に、考えておいた方がいいことがあります。程度の差こそあれ、人は不安を持つものだからです。
人は身の安全を図るために、不安や恐怖というセンサーを作動させることがあります。危険を察知したら、いち早くその場から逃げるためです。
ところが、何の危険もないはずなのに、センサーが作動する場合があります。アレルギーの過剰反応と同じようなことが、気持ちの上でも起こるのです。
本当に何もないのかは、わかりません。ただ、周りから見る限り、人災も天災も何もなく、また、本人自身も、不安や恐怖を感じるような具体的な要因を見つけることができません。なのに、不安で仕方がない…。
では、不安とは何なのでしょうか?
不安とは、常に心が安らかでない、つまり安心していない状態です。
人は、本来あるべき姿にあれば、安心できます。
あるべき姿、つまり、自然な姿です。
ところが、自然ではない矛盾した姿にあると、不安を感じてしまいます。
では、矛盾した姿とは、どんな姿でしょう?
例えば、何かよくないことが起こるかもしれないという不安。
実際は、よくないこともよいことも、どちらも起こりうるのに、よくないことばかりに目が向いてしまう。これは矛盾した姿です。
なぜ生きているのか、生きている意味がわからないという不安。
生きていることは意味があると言えばありますし、ないと言えばありません。
なのに、生きている意味がない、という側面ばかりにフォーカスしている矛盾。
いつかは自分も死んでしまう、という不安。
だからこそ、日々を大切に生きなければいけないのに、それを怠ってしまっているという矛盾。
それらの反対の姿が、自然な姿です。
人は、自然な姿で立っていれば、不安になることがありません。
矛盾した姿で立っているから、不安定になって倒れてしまうのです。
そして、この自然な姿勢は、「原因がわからない悩み」だけに有効なのではありません。原因がハッキリしている悩み、例えば、病気になって、医者の治療を受けているのに、なかなか快癒しないときにも、有効に作用します。
そのことについては、次回に。
 

閉じる