待つという行動
「待てば海路の日和あり」ということわざがあります。
海が荒れていても、じっと待っていれば、出航にふさわしい天気の良い日がやってくる、というような意味です。
人生に当てはめれば、なかなか思うように行かない時は、いたずらに焦ったり悩んだりするより、時機が来るのを待ちましょう、ということになるでしょうか?
しかし、何もせず、ただ単にじっと待つだけで本当にいいのでしょうか?
人間は動く生き物です。静止状態でずっといることはできません。待つなら、「待つという行動」をとる必要があります。
では、「待つという行動」とは何でしょうか?
想像してみましょう。
外出中に、通り雨に遭ったとします。傘を持っていないあなたは、軒下を借りて雨宿りをしています。雨は次第に強くなり、弱くなる気配はありません。今はスマホを見れば、あとどのくらいの時間で雨が通り過ぎるか分かるかもしれません。しかし、人生の天気アプリを持っている人は、あまりいないでしょう。
この時、雨が小降りになるまで待つのか、思い切って雨の中に飛び出して行くのか、どちらかを選択しなければなりません。
そのためには、どこへ行く途中だったのか、時間にゆとりはあるのか、待ち合わせなら相手の性格はどうか、雨に濡れても大丈夫な格好か、近くで傘を買えるか、季節はいつか、自分の体調はどうか、雨の振り具合はどうか、雲はどう動いているか、などなど、検討すべきことは多岐にわたります。
検討の結果、どちらを選択するかはあなた次第ですが、この時、避けなければいけない第三の選択肢があります。それは、どちらも選択しないという状態です。雨の中に飛び出して行かなければならないのに、ズルズルその時を延ばしてしまう、つまり、待つという選択も、走り出すという選択もしない、という状態です。
待つなら待つ、という選択をする必要があるのです。なぜでしょうか? 
検討しなければならないことが様々に出てくるからです。
何分なら待てるか、待ち合わせなら相手はどのくらい待ってくれるか、遅れたことへのフォローをどうするか、もし雨がなかなか止まなかったらどうすればいいか、迎えに来てくれる人はいるか、空車のタクシーが通ったら手を挙げるか、タクシー代はあるか、などなど。
肉体は動いていませんが、動くための準備はすることができます。この準備が「待つという行動」になります。待つことは、何もしないことではないのです。
言い換えれば、「待つ」というのは「準備という行動」を起こすことです。 この準備がないと、いざ天気が回復したときに、すぐに動き出すことができません。
人生がままならない時こそ、「準備という行動」を起こすべき時なのです。
 

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