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ギフト
「遅刻すべき人」がいます。
「遅刻という風景を見る経験が必要だった人」のことです。
その人は、どこでもないここで、他ではない今、そういう経験をすることが必要だったわけです。
そのことが納得できていれば、一見マイナスに思える経験も、人は受け入れることができます。なぜ自分が(自分だけが)、こんな目に遭わなければならないのか、その理由を手に入れることができるからです。
「理由」が自分の手許にあれば、人は前に進むことができます。愚痴くらいはこぼすかもしれませんが。
でももし、そのマイナス面に耐え切れなくなったらどうでしょうか?
遅刻をしたことによって、大事な契約をとることができず、上司からの厳しい叱責や同僚からの失笑など、社内の冷たい空気にすっかり労働意欲を失ってしまうこともあるかもしれません。
「ここを乗り越えたとしても、自分のキャリアのマイナス点として、この先ずっと非難し続けられるとしたら、この仕事を続ける価値があるのだろうか? この遅刻という経験が、自分の成長にとって必要だとしても、それは将来どのような形で役立つのかわからない。それが役立つのだとしたら、その未来の風景を見せて欲しい。」
「理由」のみならず、その「結果」も見せて欲しい…。人間というのは、本当に欲の深い生き物のようです。
しかし、それはできない相談です。なぜなら、「結果」は、その後のその人の対応次第でいくらでも変わって行くからです。
しかも、もし結果まですべて見えるとしたら、その経験にどんな意味があるのでしょう? 結果も何も分からないからこそ、私たちは暗闇の中でもがき、あがき、それが経験として蓄積されて行くのではないでしょうか?
また、理由や結果を欲しがりすぎると、それが手に入らなかったときに、新たな悩みが生まれることにもなりかねません。
私たちにできることは、あらゆる経験が自分のために準備された贈り物であると信じ、それをただ前向きに受け入れることです。
そんなこと、簡単にできないのでは?
そういう意見も聞こえてきそうです。
しかし、果たしてそうでしょうか?
信じるということは、そんなに難しいことでしょうか?
それは、次回に考えてみましょう。

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